<『RED RED RIVER 2』についての16のメモ>


以下は、2010年7月18日に調布市文化会館映像ホールにて第一回上映時に配布したパンフレットの全文である。
過去のものであるばかりか、半ば即興的に書いたものなので、加筆・修正の必要に迫られる箇所も散見される。
しかし、1年前の自身のドキュメントをそれ自体無為に放置しておいてもしかたないだろう。あえてそのまま掲載しておく。








<『RED RED RIVER 2』についての16のメモ>





■1 タイトル-1


5年くらい前、ちょっとお金に余裕ができて、半年くらい働かずに気ままに暮していて、タマ川べりでワインを呑みながら寝そべって音楽を聞いていた時期がありました。そこで、ある瞬間、突然「ハっと」思った。「川の水が赤く染まっていて、ギラギラ光っている」、そんな妄想がポっと出てきたんですけど、強烈なイメージだったので後々までひきずっていた。別のある日、イギリスのUB40というレゲエのバンドがあって『RED RED WINE』という曲があったことを思い出した。たぶん僕が中学生くらいの頃だから1980年代半ばだけど、サントリーのCM(海辺で鯨型の気球がふわふわ浮いていたやつ)で使われていた曲で、穏やかな、のんびりした感じのいい曲だった。だからタイトルは「妄想で赤くなった川」と「実際に呑んでいたワインの赤色」と音楽の「レッドレッドワイン」とのイメージ連鎖でできあがったといってよいです。あと、「なんでこんな妄想が起きたのかな」と考えていたら、「赤」というのはどうしても血の色と関係していることがあって、「川」と「赤=血」とのイメージ連合でどうしても「戦争」と結びつけてしまうことがあった。川中島の戦いとか昔の日本の戦でもそうだったんだと思いますけど、ドメスティックに見ても、グローバルに見ても「川と戦争」はトポグラフィックな関係があって、多くの敗残者から流れた血が川に流れていたんだと思います。川というのは物質的に「水が流れている場所」の意味合いが強いけど、戦争という視点から見たら「敵と味方」をわけやすい、「こっち」(此岸)と「あっち」(彼岸)を形成させてしまうメディウムだと思います。『RED RED RIVER 2』はワインによる心地よい酩酊感と戦場での苛烈さ、過激さが共存しているといってもよい。


■2 タイトル-2

タイトルというのは実体についての名前で両者は一枚のコインの裏表になっている。僕は作品にタイトルがあるということをあまり必然的なものとして考えていないところがあって、それはなぜかと言うとアートと言われるものが歴史的に見て人為的なものでしかないからです。例えば万葉集の時代には作者も作品タイトルもなかった。(もちろん芸術とか文学という概念さえありません。)「詠み人知らず」というやつで「誰が詠んだ歌かわからないけど、すばらしいので万葉集に入れておこう」と柿本人麻呂が判断ー編集するわけです。


人間にしても、生まれる前から名前が決定されていて、改名しない限りその名前と一生つきあっていかなければならない。「生まれることは多分、すばらしいことなので名前をつけよう」くらいのニュアンスで説明されるべきことなんだろうけど、当の本人にとっては不自由な対象にもなる(ペンネームとかは不自由性のあらわれでしょう)。だからタイトルとか名前というのは運命論的なところがあって(運命とは自分の意志で制御できない対象のこと)、多分に偶然性の位相に近いところもある。


■3 タイトル-3



だから最初は妄想のイメージ連合がよせつけたタイトルをいったん解体したいと思った。字幕画面で特に後半部、<RE>から始まる英単語を入れているのはそういうことです。<RED>が抱えこんでしまう意味の固定性をズラしていきたい、ということです。一応ここに列挙しておきます。



RESIDENCE(居住する)
RESISTANCE(抵抗する)
REVOLVE(回転する)
REVOLVER(リボルバー
RESONANCE(共振する)
RESPONSE(応答する)
REFORM(形を変える/作りなおす)
RECORD(記録する)
REJECT(縮減させる)
REMEMBER(想起する/思い出す)




■4 箱-1

この映画の中で僕が「箱劇場」と呼んでいる、木片を4つくっつけた木箱の中に人形やメトロノームやレコーダーを入れて、空間を発生させている箇所があります。これが端的に面白いなと思ったのは、画面に深みが出ること、アニメーションと実写のちょうど中間地帯というか、2、5次元的な位相ができあがることでした。人形も段ボールを切って、クレヨンで色付けした素朴きわまるもので、市販のフィギュア人形やぬいぐるみを入れるよりも、ずっとグッときた。登場人物の顔写真を切り抜いて貼付けていたりするけど、実写と対応した位相が作れるし、それゆえに「わかりにくさ(面白さとしての不可解さ、不思議さ)」が作れる。またクレイアニメーションのようには「動かさない」というのがポイントで、これはアイデアとしてうまくいったと思います。


■5 箱-2

あとで知ったんですけど、箱劇場は実のところ、村山知義という美術作家がやっていた。村山知義はどちらかといえば絵本の絵付け師なんかで知っている人が多いかと思うんですが、吉行あぐりが経営していた美容院の設計や、築地小劇場で活躍していた劇団の舞台設計なんかもやっている。空間芸術と平面芸術をわりと分け隔てなくやっていた人で、日本のダダイズムなんかとも通底しているところがある。で、箱劇場は文字とおり、演劇の舞台設計のミニチュアとして使用していたのだと思われます。村山知義はその後、独立した美術作品として、箱を用いた作品を作っています。



■6 箱-3

箱というメディウムはオップアート(視覚芸術)と大きくかかわっているというのが僕の見解です(僕だけではないと思うけど)。絵が描かれた洞窟も箱といえば箱ですし、画家が屋外で描き出すようになってから使用したカメラオブスクーラ(自然を正確に描写するために使われた光学装置)も箱ですし、写真機も箱ですし、紙芝居も箱いりますし、幻灯機も箱いりますし、映画の撮影機械も箱だった。ハード面で箱という形状は欠かせないわけですが、ソフト面では箱は一種のフレームを形成する装置としてあります。箱劇場は映画というフレームの中の別のフレームで、その中に、オブジェを入れることによって可能なものとしてくれる「流れ」を形成させてくれます。フレームは時間を生み出す仕組み、時間軸を多層化する仕組みともかかわっているわけです。


■7 戦争-1

夏になるとテレビや催しもので戦争を題材にしたものをやって、なんとなく終戦日あたりまで戦争回顧みたいなムードがありますが、それとは関係なく僕は年中、戦争に興味を持っています。(正確に言えば、自分の生活とまったく関係ないにもかかわらず興味をもっています)。3年前、主に古橋研一という方が書いた資料をもとに調布市内の戦争遺跡を見て回ったことがあるのですが、B29が墜落した場所を確定したいと思い調布図書館の司書の方に聞きに行ったことがありました。しかし、その場では住所までは確定できず、2週間待ってくれ、ということになった。司書の方はアメリカの国会図書館に連絡してまで調べてくださり、それで場所を特定することができました。そういう経緯があって、国領駅付近(国領町3丁目)を撮影しに行きました。(その数ヶ月後、京王線調布駅の地下化工事にともなって、B29の墜落時にそのまま放置され地下に埋まっていた車一台分ほどの不発弾が発見され、それを取り除く作業があり、もちろん当日の現場も撮影しに行きました・・処理現場の中にははいれませんでしたが)。



■8 戦争-2

「第二次大戦時、原子爆弾は京都に投下されるはずだった、そして京都は戦火を受けていない」という見解があります。京都人にもあまり知られていない事実ですが、京都市内で三カ所爆撃を受けている場所があります。

1、東山区上馬町付近 
2、上京区西陣、知恵光院通りと下立売通りが交差している付近(引火性があるからか油商の工場が狙われたようです、この油商は今でもあります)。 
3、右京区天神川四条付近(今は自動車工場になっています)。

調布市内でも3カ所、戦争にまつわる場所を撮影しています。

1、メモ7でふれた国領町のB29墜落現場、
2、同じく国領町にあるJUKIという会社、ここは戦時中は銃を生産していた工場で地下には射的場がありました。今ではJUKIはミシン(の部品)を作っている会社です。(JUKIは今では「重機」と表記されていますが、昔は「銃器」だったのだと思われます)。
3 調布飛行場。ここが戦争遺跡としては一番知られているところで、戦機を格納していた「えん体壕」も保存してあります。


京都で3カ所、東京で3カ所、計6カ所、特定した場所を撮影するという手法は『RRR1』のヴァージョンを引きついだものです。『RRR1』の方は京都、東京と同じく6カ所、可能涼介と二人で周り、川べりにある神木を撮影しました。(樹木信仰というテーマに沿って撮影しました)。
 

■9 戦争-3

ジャン=リュック・ゴダール(1930〜)は「人は戦争をするかわりに戦争映画をつくるべきだ」と言っています。


■10 一人芝居

今回出てもらった森桃子さんのコントを見に行ったのは2008年の春頃だったと思います(青山スパイラルホール)。その後、何回か会って話しているうちに、一人芝居をやっていることが判明して、出演をお願いしました。公園での即興の演技でしたが、設定は「一人芝居の練習をしている」というものです。声を変え、立ち位置を変え、一人で数人を演じること、こういう訓練の過程は人を分裂症(総合失調症)へと導いてゆくのだと思いますが、つまらないひとりよがりの「キャラ」の創出なんかよりも遥かに面白いと思います。あと、井の頭公園でギターを弾いているおっちゃん、ブルーム・ダスター・カンという名前で演奏している人ですが、この人もいわば一人芝居をやっているのだと思います。孤立の境地に立たされている人に対して、とてもひきつけられてしまいます。ちなみに森さんの撮影後に観に行った2008年の「まっかっか」(RED RED?!)という一人芝居はカフカ的、あるいはベケット的とでもいうべき、とてもアブストラクトなものでした。


■11 無関係性-1

さて、今回の大きなモティベーションである「無関係性」。無関係性は僕にとっては「生の技術」とでもいうべき何かです。僕たちは友人や恋人や家族やペットや世間という「諸-関係」の中で生きているわけですが、僕が思うに、同時に「諸-無関係」でなければならないというわりあい強い動機があって、これが「生の技術」と直結していなければならない。この動機は、昨今の大きなイデオロギーである「つながる」という幻想に対しての倫理的な懐疑を伴っているのですが、この「関係性への懐疑」が『RRR2』には多分にある。「無関係性」を「非同期性」として強調するということですが、同期しそうでしない、関係しそうでしてないという次元を維持することに意識的に取り組みました。


■12 無関係性-2

無関係性というのは近代的な問いであり、テクノロジーによって形成されてきたと思います。例えば携帯電話で話している時、相手と話している自分と視界に入っている光景を見ている自分が関係しているとは思えない。そう思えないことを思わすのは、まさに「自分がある」ということを前提させる身体性があるということに起因するのであって、その「バラバラさ加減」は身体の絶対的な一個性によって確認される。この現象を時間的に見ると1秒前の自分と今の自分が果たして関係あるのか、とか2秒後の自分は今の自分と関係あるのかという問題設定ができる。(付け加えておくと、目と耳と口がつながっていない、とか思っていることとやっていることが違っている、というのは無関係性のあらわれです)。

映画というのは「コマ」という単位(35ミリフィルムは1秒間に24コマあります)、ビデオだったら「フレーム」という単位(1秒間に42フレームあります)で動いているのですが、1秒間の身体を42に分解することができる。42分の1をまさに「瞬間」などと呼んでいるわけですが、その瞬間が成立するためには、別の諸-瞬間が必要になってくることをテクノロジーは知らしめてくれるわけです。


■13 無関係性-3

『RRR2』においては瞬間的な要素が沢山ある。それも「なんでここにこんなカットが?」という箇所にパッと画面に出てくる。それは連続性を断ち切って無関係性を表出することに他ならないんだけど、どれだけ無関係性を表出しても、関係づけてしまうのが人間の本性にあると思います(←これを一般化するのは危険なことかもしれないけれど)。

「無関係なモノやコトを関係づけずにはおれない」というのはひょっとしたら食欲や性欲や睡眠欲と同じくらいあるのかもしれない、と最近思うのですが、これはまだ完璧に解明できていません。ただ、ひとつ言えることがあるとすると、関係性が確認されればされるほど、無関係性が強調されてくるというパラドックス(逆説)があり、逆のケースもあるいうことです。これを論理的に解明する手段はいくつかありそうですが、ひとつは人間が物事をフレーム(枠組み)として捉えているということにあって、物事を絶えず(能動的にも受動的にも)限定的に捉えているのだという認識にキーがあると思います。


■14 乱数表-1

無関係性に関係あることですが、「偶然」というのがあります。たとえば森さんの一人芝居の最中にたまたま電車が通り、電車の動きに連動するかのように、森さんの芝居(アクション)が変化する。森さんが賢明なのはそれを自覚的にやっている(と思わせてくれる)ところにあります。この連動現象は「人のマネをしてしまう」とか「鼻唄が乗り移ってしまう」とか「人が見ているところを見てしまう」とか、いろんなレベルで確認されることだけれど、無関係性になびいてしまうことが日常茶飯によくある。別の言い方をすれば、所与の偶然が無関係であるがゆえに関係づけたくなるということを無意識にやっている。そこで、ある意味、「われわれの行為は、偶然によって管理(規定)されている」という別の味方ができる。「偶然が積み重なってこうなりました」という日本人が大切にしている理念「なりなりて」(本居宣長/江戸後期)というやつですが、そこには建築への意志が決定的に欠けています。


■15 乱数表-2

今回編集上、4カ所偶然性を導入しているところがあって、乱数表を用いています。(本来はすべて偶然でできあがる映画を作るべきなんでしょうけど、未来に預けます。・・論理的に不可能なことですが)。乱数表は京王井の頭線明大前駅から渋谷駅に向かうために作成されたダイアグラム(2008年9月1日改正版の時刻表)を使用しました。合計して数値が243個あり、4時45分の始発から0時23分の最終までの「分」の数字をアトランダムに配置しなおしたものを基盤にしています。手続きとしてはi-tunesの曲をシャッフルで流し、3曲目に出て来た曲の分数を足して、(例えば6分23秒の曲なら6+2+3で11)得られた数値を2回出して、時間と分に割り当てました。11と52が出たら11時52分に相当する数値=解答が求められる。11時52分に一番近い数値が「16」だったら「16番目のカットに挿入する」というものです。なぜこういうことをするのか?これは現代音楽(高橋悠治ジョン・ケージ)や現代美術(ジャクソン・ポロックジャスパー・ジョーンズなど)からの影響ですが、「作る主体」に対して積極的に懐疑的になるということです。作家と作品が1対1の対応をもっているところに「作家」という地位が確立されるのだとしたら、偶然性の導入は「作家」や「作品」の外に位置づけられるべきだ、ということかもしれません。うまくいっているかどうかわかりませんが。


■16 映像/音響の感触

最近気付いたことですが、街のあちこちに動画が見れる環境が整備されてきて、コンビニのガラス窓なんかでも平面モニターを取り付けて映像を流し、携帯端末と連動させながらある種のモダリティを実現させている。ひとことで「モニター都市」とでもいうべき電子環境がいよいよ目立ってきて、それで、これからどうなるのかな?と思うんですけど、どれもこれも無害な映像で平面的でつるっとしている。商売に余念がないというか、晩期資本主義のさらなる焦りが垣間見えていて、あまりいい気持ちはしない。(神社の鳥居なんかがモニターを積み上げたものだったりしたらカッコいいんだけど)。

『RRR2』はザリっとしてガリっとした感触を全面的に押し出したかったので、微小なノイズや映像間の些少な亀裂なんかをそのまま残してあります。流麗さ、なめらかさというのも一つの魅力だけれど、映画の最終部で矢部史郎が指摘している「社会の女性化」「男性の女性化」そして「暴力の終焉」に対抗するわけではなく、たんに趣味的なものです。洗練、成熟・・やけに大人っぽい大人・・・一人芝居の森桃子のセリフではありませんが、最後にこう呟いておきましょう。「逃げ回れ!行け!」




<さらなる余白のために>

以上、『RRR2』についてつらつらと書きましたが、観賞は、まずは個々の絶対的な自由の領域でなされるべきものであり、映画の見方を強制されることがあってはならない。にもかかわらず、これだけ書いてみなさんに提示してしまったのはひとえに僕が「言語」を過剰に抱えこんでいるからです。これもまた別の絶対的な自由であると同時に不自由でもある。この認識上においてのみ、作品の条件があるのでしょう。少なくとも僕にとっては。(2010-07-15 野上亨介)